結婚10年を機に始めたジョギング。いつの日にか大阪国際女子マラソンを走ることを夢に持ち、岡山で開催される山陽女子ロードで記録を取得。そしてついに待望のエントリー。しかしマラソンを目前に控えた1994年1月4日、交通事故で手足の自由を奪われ車椅子生活になリました。残された命をどれだけ悔やんだことでしょう。でも、もう1度走リたい!という強い思いと、夫や娘達、家族たくさんの友達、そして恵まれた人間関係に支えられ、前向きに生きることが出来ました。
「元気をくれる花だって。」と、仕事先でひまわリをみつけては、新聞紙にくるんで病室に持ってきてくれた夫、メッセージ入リの娘達の手作りお守リ、季節を届ける友人達の手紙や手作り料理、ランパン姿でいつもと変わらず接してくれた仲間達…。そして私のことを知った、大阪国際女子マラソンの役員の方が、毎年手紙を添えてフィニッシャータオルをはじめ、大会グッズを送リ続けてくださいました。どんなに力になったことでしょう。今年の大会は、エントリーから丁度10回大会。ついに観戦に行くことが出来、10年目の完走!
...(中略)...
退院、間もない頃、君原健二さんの講演をテレビで見てとても感動し、お手紙を書きました。思いもかけなかったお返事が早速届き、否定しつづけて釆た電動車椅子でのマラソンを決意。君原さんが毎年参加されている、以前私も何度か走ったMIKANマラソンにエントリー。そして大会当日、スタートするまでは複雑な思いでいつばいでしたが、スタートすると以前と変わらず無心になれ、沿道や友人の声に励まされゴール!ジョギングシューズが電動車椅子に変われた瞬間でした。君原さん、あリがとうございました。
この大会のパンフレットに記載されてあるランナーズエイドを目にし、君原さんに尋ねると、ハート・オブ・ゴールドの資料を送ってくださいました。これがハートオブゴールドとの出会いです。有森さんの活動は知ってはいましたが、資料を目にし、そして自分もハンディーを持った今、ひどく共感させられました。
以前から障害を持たれた方、ポランティア活動が気になりながらどうすればいいのか、どのように声をかけていいのか分からず、消極的でした。でも自分が障害者になって、逆に障害者側も健常者に、どのように声をかけていいのか分からないということを知りました。お互いに「どうしよう?」ではなく同じ人間なんだから、困っている時は普通に手助けを、出会えば普通に声をかければいいんだ、ということのようです。
2001年10月、ジョギングを通じて知リ合った友人達の支えで、画廊を借りて原画展を開催。友人達、多くのメディアのご協力で、たくさんの方が来てくださリ、夢のような1週間でした。このときハート・オブ・ゴールドのパンフを掲示させていただき、個展でやリ替えた古い額や画材屋さんの協力で額を安く提供して頂いたものに、カレンダーを切って入れた額絵,古いカレンダーを安くしたり、とチャリティーを募ったところ、あっという間に完売。多くのご協力がありましたミ、人の温もりに、たくさん触れた原画展でした。これらの売り上げをカンボディア障害者の方がたの何かの役に立てるならと、ハート・オブ・ゴールドに送らせて頂きました。助けたり助けられたり、殺伐とした世の中で、疑り深くなっていた人のやさしさ、私はハンディーを持つことによって再認識させられました。受傷して来年で10年目になりますが、どれだけの人に助けられたことでしょう。感謝の思いでいっぱいです。
私も,やさしさを大切に生きて行きたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いします。
先日、有森さんが近くに来られ、お会いすることが出来ました。「夢は訪れるものではなく、掴み得るもの。」印象的な言葉でした。